小林一三 阪急電鉄創業者 -成功者のための雑学日記-
阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝映画等、阪急グループの創始者。
百貨店も住宅地経営も、遊園地も、野球場も、その他のスポーツ施設も、収入広告塔も、電車車内の中吊り広告もみんな彼がはじめたものである。しかし彼の業績は、影も形もなかった「阪急電鉄」という会社を大きく発展させたことだけにとどまりません。
たとえば、今私たちが当たり前に利用している駅前デパートや劇場、ビジネスホテルなどの都市生活スタイルのほとんどは、彼の独創的な発想とアイデアから始まったと言っても過言ではないのです。
明治6年(1873年)1月3日、山梨県の韮崎で酒造業と絹問屋を営む富商だった小林家に一人の元気な男の子が産声をあげました。
誕生日にちなみ「一三(いちぞう)」と名づけられた少年は南アルプス山脈のふもとの町ですくすくと元気に育ちました。そして15歳を迎えた明治21年、慶応義塾で学ぶために上京。この後19歳で卒業するまで、浅草や麻布などによく遊びにいき毎月芝居を見に行くほどの“劇通”になったといいます。
そういった新しい文化に触れて刺激を受けたのか、すっかり文学青年となった彼は自らも創作活動に励み、小説「練絲痕(れんしこん)」を故郷の「山梨日日新聞」に連載するほどの腕前に上達。その頃から将来は小説家になりたいと思い始めました。
卒業後は本格的に小説を書こうと都新聞に入社を希望していましたが、かなわず、翌年の明治26年、当時の三井銀行に入社。そして明治40年、34歳になった小林一三に大きな転機が訪れました。かねてより付き合いのあった北浜銀行頭取の岩下清周から「新しく設立する証券会社の支配人をやってもらいたい」との申し出があり、14年間勤めた三井銀行を退職することになったのです。
当時日本中のどこにも証券会社は存在しておらず、小林は日本で初めての証券会社の設立に意気揚々と大阪にやってきました。しかし、大阪に到着したその日に日露戦争後の株式大暴落が始まり、証券会社を作るどころではなくなってしまいました。意気消沈する彼に、3ヵ月後再びチャンスが到来します。三井物産常務の薦めで、阪鶴鉄道の監査役を務めることになったのです。これから新しい鉄道を開通しようと皆が意気込んでいる職場で、彼はやる気を奮い立たせたことでしょう。
そしてここが、小林一三の“阪急人生”のスタート地点でした。
阪鶴鉄道が発起した新しい鉄道「箕面有馬(みのおありま)電気軌道株式会社」の創立事務を務めることになった小林は、着々と準備を進めていましたが、時は不景気の真っ只中で片田舎の地に人気があるはずもなく、11万株のうち5万4千株も未引受株が出て経営前から解散の危機に見舞われました。誰もが諦めつつあったこの鉄道建設計画。しかし逆に、小林はその鉄道沿線の土地に大きな可能性を感じていました。
「この鉄道は今は信用がまったくない状態、沿線住民さえ早々に撤退するだろうと思っている状況の中、沿線の地価は底値に近い状態にある。そこをうまく使わない手はない」。そこで彼は、当時の鉄道会社が思いもつかなかった斬新なアイデアを考え出しました。
それは沿線の土地を購入し、住宅地として開発して転売すること。
沿線住民が増えれば必然的に通勤による鉄道の利用客も増えることになります。自分のアイデアに確信を持った小林は、会社設立のリスクを一人で背負う決心をして専務取締役に就任し、毎日準備や資金調達に駆け回りました。
この「箕面有馬電気軌道株式会社」こそが、のちの阪急電鉄株式会社となる会社だったのです。
小林一三が生前よく使っていた言葉に「大衆」というキーワードがあります。彼が行ってきた事業はすべてこの言葉の上に成りたっていると言ってもいいでしょう。学生時代から小説や演劇に精通していた彼にとって「大衆」こそがもっとも興味深く、もっとも親しみやすいものでした。彼は常に大衆の気持ちを考え、大衆があるべき理想のライフスタイルをイメージし、それを自分のできる限り現実のものにしようとしました。
彼が抱いていた大衆の理想的なライフスタイルとは、まさに欧米の田園都市でゆとりある暮らしをする人々の姿でした。自然の豊かな環境の中で広い庭のあるモダンな家に住み、演劇などの芸術を楽しみながら健康的に暮らすことが、欧米では当たり前に見られる風景だと思っていたのです。そしてこの沿線の住宅開発に当たっても、それまでは考えられなかった畳の間が一つもない純洋風住宅や広い庭を用意し、その理想像を一つ一つ現実のものにしていきました。当時、官吏や弁護士、医者、銀行員、商社員などは、常に上昇志向を持ちながらも資産はあまり持っておらず、そして何より社会の中ではまだまだ少数派でした。
そういった階級の人々を小林は「大衆」と判断し、小林の創る理想的な生活をきっと切望しているであろうと踏んだのです。こういった「大衆」をより多くの人へと拡大していくことが、日本全体の健全な成長へとつながるはずだ、と。
分譲住宅のパンフレットで小林は「排煙の漂う不衛生な都会から抜け出し、清潔で爽やかな郊外生活をしよう」と呼びかけました。都会に住むことがもっともよい生活だと思われていた当時、それはショッキングな呼びかけであったことでしょう。そしてもう一つ大きな試みがありました。それまで住宅販売では採用されることのなかった賦払い方式、つまり住宅ローンを取り入れたことです。この方法は見事に功を奏し、たくさんの人々が小林の提案するライフスタイルに賛同し、分譲住宅はほどなく完売したのです。
住宅販売事業が成功をおさめたあとも、小林の挑戦はまだまだ続きます。宝塚本線、箕面支線が開通すると、郊外へ行楽客を集客するために箕面公園に動物園を造営し、宝塚ではもともとあった温泉とは別に新温泉の開発に取り組みました。そしてその温泉の客寄せとして少女による唱歌隊を結成することを発案しました。少女たちは歌だけではなく歌劇もこなせるようになったことから、大正2年(1913年)、宝塚唱歌隊が生まれました。これこそが今も全国に多くの方々に愛されている宝塚歌劇団の前身です。
それまで少年の音楽隊はあったものの少女の音楽隊はなく、またもや小林のアイデアが日本の独自の新しい文化を生み出した瞬間でもありました。女性が男性を演じ、歌を交えながらストーリーが展開されていく斬新なスタイルは広く民衆に受け、新聞社とのタイアップ効果なども手伝って興行は入場料をとれるまでに成長しました。そして「この楽しい演劇を一人でも多くの人に観てもらいたい」と思った小林は、宝塚に4千人を収容する宝塚大劇場を完成させました。その後昭和9年(1934年)、東京宝塚劇場がオープンし、ついに宝塚歌劇団が東京に本拠地をかまえることになります。
東京宝塚劇場のオープンから1ヵ月後には日比谷映画劇場がオープンします。入場料金を等級なしの一律50銭とし、業界に大きな波紋を投げかけました。その後、日本劇場での営業開始や有楽座のオープン、そして小林の構想の下、全国主要都市における劇場建設が急ピッチで進められていきました。昭和12年(1937年)には東宝映画株式会社が設立され、製作配給興行一貫体制を確立した東宝映画は飛躍の時を迎えます。(その後、昭和18年(1943年)に株式会社東京宝塚劇場は東宝映画株式会社と合併し、東宝株式会社と名称を改めました。)
良質な映画や演劇を安価な料金で数多く、ここで小林が目指したのも
「大衆のための娯楽」でした。一部少数者のための芸術でもなければ、多くの大衆に媚びるための快楽的なものでもない、個人より家族、家庭、公共、大衆、そして全国民が楽しむことができる「清く、正しく、美しい」ものとして展開していったのです。
