本田宗一郎 -成功者のための雑学日記-
明治39年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現在の天竜市)で鍛冶屋の長男として生まれた。
宗一郎は幼いころからガソリンの匂いとエンジンの音が人好きで、村を自動車が走ると夢中で後を追いかけたという。
しかし、学校の成績はからっきしで、甲乙丙の丙ばかり。
筆記試験は本人曰く「表現の仕方が下手くそなうえに、習字か嫌いだから字を書くのが面倒くさい。つい書かずに出してしまう。」綴りの時間になると裏山の木の上で空を眺めていることが多かったらしい。
だが,自動車への憧れは募るばかりで、小学校高等科を出るや東京・本郷の自動車修理業「東京アート商会」に丁稚奉公。6年後、のれん分けをしてもらい、郷里で 「東京アート商会浜松支店」を開業した。昭和3年、宗一郎22才のときである。
商売は軌道に乗るが、宗一郎は修理業だけで終わるつもりはない
。「おれの手で自動車をつくりたい」
一介の町工場の主にしては過ぎた夢だったが、直に浜名湖畔を珍妙なスタイルの試作車が走り始めた。ここで早くも宗一郎の独創性が開花する。それまで木製だったスポークを鉄に換えたのだ。
鉄製スポークは海外へ輸出されるほど爆発的なヒットを記録し、従業員も50人まで増えた。創業僅か3年後のことである。月の利益が2000円近いというから、今の貨幣価値でいえば一億円近く。しかし昭和9年、突如、業績絶好調の「アート商会」をほうり出してしまう。代わって看板を掲げたのが自動車部品のピストンリングメーカー「東海精機」だった。トヨタ自動車の下請けである。
だが、念願の自動車製造への第一歩で大きな挫折を味わう。
肝心の製品が不良品ばかりで、トヨタが合格を出したのは1000個につき僅か3個。自ら現場・実践主義を標榜し「作れない物はない」と豪語してきたが、この時ばかりは学問の無さを後悔したという。しかし、宗一郎の凄さはここからだ。
浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)に製品の分析を依頼すると、シリコンの不足が判明した。基礎学問の必要性を痛感した宗一郎はそのまま浜松高等工業学校の聴講生になってしまう。30才の妻子持ちで社長という一風変わったこの学生は、関心のない科目は無視し、やがて退学処分になるが、思い込んだら一筋の宗一郎である。まったく意に介せず、結局2年間学び続けている。こうして良質のピストンリングの製作に成功したのである
ところが昭和20年、浜松地方に大地震があり、工場が倒壊、そして敗戦。当時、40%の資本を握るトヨタから「トヨタの部品をつくらないか」と持ちかけられるが、あっさり会社ごと売り渡してしまう。このトヨタとの関係について、生前、宗一郎は多くを語っていないものの、大トヨタの傘下に入って自動車製造への夢を断ち切られることが我慢できなかったに違いない。
そして、昭和23年9月、「本田技研工業」を設立した。
宗一郎は、翌24年、生涯のパートナーとなる藤沢武夫に出会う。当時材木商を営んでいた藤沢は知人の紹介で引き合わされたこの4つ年上のパワフルで、子供のような邪気に満ちた男にすっかり魅了されてしまう。
「私があなたの技術を生かす金をつくってみせる」。
世界のホンダへと駆け上るコンビが誕生した。
2サイクルのオートバイ「ドリーム号」、自転車用補助エンジン「カブ号F型」とヒットを飛ばし、その一方で設備資金が膨らみ過ぎて危接に陥ったときの三菱銀行の援助など、ホンダがオートバイメーカーとして覇をとなえるまでの話はあまりにも有名だ。
宗一郎の度外れた技術者魂を物語るこんなエピソードがある。
昭和29年12月、宗一郎はオートバイのオリンピックとも言われる「マン島T・Tレース」(イギリス)で優勝するとぶち上げるが、その後、実際にレースを視察するや度肝を抜かれてしまう。馬力といい、スピードといい全く違うのだ。
世界の水準との差をいやというほど見せつけられて、導き出した答えはひとつ。それまで4000回転程度だったエンジンの能力を、一気に10000回転まで上げようというもの。エンジンの能力を考えれば非常識もいいところだが、「はじめから無理だと諦めては何も生まれない」
と涼しい顔。結局、宗一郎は膨大な技術の問題を克服し、36年にグランプリを獲得してしまうのだ。
ホンダが、いよいよ念願の四輪へ進出しようとした昭和36年、またも立ち塞がったものがある。通産省だった。貿易の自由化によるメーカーの共倒れを警戒した通産省は、乗用車への新規参入は認めないとの方針を打ち出したのだ。宗一郎は顔を真っ赤にして怒った。
「うちの会社の経営に口を出すなら株主になってもらおう。話はそれから聞く。」
その後、法案の国会提出前の昭和37年、小型トラックを発売し、新規参入を果たすが、戦後の日本産業の発展に寄与したと世界的な評価も高い通産省は、少なくとも新参者のホンダに対しては冷たかったのである。
ホンダ発展の歴史はそのまま、非常識の歴史でもある。例えば昭和39年のF1への参戦。周囲は「無謀すぎる挑戦」と罵ったが、「自動車をやる以上、まずF1から始めるべきだと信じてやってきた。何かやるときは最も凶難な道を選ぶというのが私のモットーだからだ」と言い、見事翌年、優勝してみせた。
そして1970年、米同議会で成立したマスキー法案。
自動草の排ガスを75年までに、70年当時の10分の1にする、というこの規制値がクリアできるなど、世界のどのメーカーもまともに考えなかった。しかし、ホンダは72年、世界で初めて低公害エンジンを開発し、見事クリアしてしまう。
宗一郎の魅力のひとつに、生まれ持った「品の良さ」がある。親類縁者を経営陣に据えなかったのは有名な話だし、社員の子弟の入社を禁じていた時期もある。創業以来、片腕として働いてきた実弟の弁二郎も昭和39年、常務の地位で去っている。
そして昭和48年10月、副社長の藤沢と二人揃って
「幸せだったな」「良い人生だったな」
と珠玉の言葉を残し、引退した。この見事な引き際が、世界のホンダのイメージをさらに高めた。
宗一郎は平成元年10月、日本人では初めて、米国の自動車殿堂入りを果たしている。
